羊の年(779年)5月、タブガチ(唐)のカガン(皇帝)、代宗が崩御した。オルドゥ=バリクのブグゥ=カガンの許に、喪を告げる使者が到着したのは、翌年6月のことだった。唐では、大歴という年号が改められ、建中元年になっていた。
使者の梁文秀は、適当にあしらわれ、ひどく侮辱されたように感じた。なぜ大唐帝国の使者がそんな扱いをされなければならないのか、最初、彼にはわからなかった。しかし、ブグゥ=カガンは、その意図を全く隠そうとはしなかったから、やがて、唐の使者にも、唐への親征が既定の事実だということがわかってきた。
しかし、やる気満々だったのは、カガンと側近のソグド人たちだけで、必ずしもウィグルがくにを挙げて唐への侵攻を望んでいたのではなかった。
一昨年の馬の年正月に、ウィグルは太原から楡次、太谷、陽曲にまで侵入して数万匹の羊馬を獲得したが、羊武谷で代州都督の張光晟の軍に遭遇して破られ、ウィグル側の兵馬の損害も少なくなかった。カガンや側近のソグド人たちは、「数万の羊馬を獲た」という一面だけを見て、唐側の喪につけ込んで更に大きな収穫を得よう、と考えたのであるが、もう一つの面……「戦闘に参加した兵馬に多数の死傷者を出した」という面を負っていたブドゥン(部民)には、毎年、約束通り歳幣を支払ってウィグルのカガンに臣礼を尽くしているタブガチのカガンを、兵を出して懲らしめなければならない理由がさっぱりわからなかった。
他にも、ブグゥ=カガンの決定を快く思わない人たちの一団があった。それは他ならぬ、ヤグラカル氏など、ウィグルの支配層に属する人たちであった。
もう17年も前のことになるが、ブグゥ=カガンがタブガチのカガンの要請によって史朝義を滅ぼした兎の年(763年)、オルドゥ=バリクへ帰る際に、洛陽にいた四人のマニ僧を連れて帰った。常にブグゥ=カガンの側に仕えているソグド人の助言によるものだ。
「ウィグル」は、ウィグルのヤグラカル氏が代々カガンを出しているために、全体としても「ウィグル」と呼ばれるようになってきてはいるが、正確には、あくまでトクズ=オグズである。ウィグルは、他の氏族同様、トクズ=オグズを構成する九つの氏族の一つに過ぎない。テングリのクト(恩寵、幸)を受けた者を、九つの氏族が共同で推戴して初めてカガンになる、という建前である。もちろん、そういった建前は徐々に形骸化して、カガンはヤグラカル氏の者が継ぐ、というのは暗黙の了解となってきてはいたが、「カガンになるには、九つの氏族の合意がなければならない」という意識は色濃く残っていた。従って、現カガンは自分たちが選んだおかげでカガンになったのだから、カガンにもの申す権利は当然ある、と九つの氏族の長たちが考えるのも当然だった。自分たちの要求が入れられなければ、カガンを替えろ、と言ってみたり、タブガチなどもっと気前の良いカガンの許へ行ってしまうというのも自由だったから、カガンがトクズ=オグズ全体に対して持っている権限というのは、実は限られていた。
そういったわけで、ブグゥ=カガンは、ウィグルのカガンは手足をがんじがらめに縛られている、と感じていた。タブガチやタージー(アラブ)のように、カガンが自由に何でも決めることができ、臣下の者どもの口答えを許さないような、そういう君臣のあり方を正当化してくれる世界観というか価値感というか、何かそういうものはないものだろうか。
そこで、白羽の矢が立ったのがマニ教だった。ソグド人の多くが信じているマニ教は、創始者のいる宗教としては、ウィグルにとって最も見慣れた宗教だった。キリスト教やゾロアスター教を育んだ一般常識と、それらによって数世紀にもわたって提供されてきた善悪の判断基準を持つ人たちにとっては、マニ教は許し難い異端だったのかもしれないが、ウィグルの価値観は、そのどちらからも同じくらい遠かった。先入観のない目で公平に見れば、マニの提供する世界観に、例えば、キリスト教と比べて大きな欠陥があるわけではない。善い神の地上での代行者、あるいは正しい教えと信徒の守護者である専制君主に権威を付与することを厭わない点では、他の宗教と何ら変わらない。
しかし、さすがのブグゥ=カガンにも、マニの聖典にも、伝統という強い慣性の力を完全に殺ぐことはできなかった。
特に、これまでも、カガンはソグド人の言葉にむやみに従いすぎる、と感じ続けていたヤグラカル氏をはじめとする由緒ある家柄の人たちは、古からのしきたりで守られてきた自分たちの地位がソグド人に奪われる、と危機感を持った。また、すべての醗酵食品(酒だけでなくヨーグルトなども含む)の飲食を禁じ、生殖を悪と考えるマニ教が、家畜を増やすことによって人々を豊かにし、兵力を蓄えてくにを強くするウイグルの現実にそぐわない、と受け取られた。
マニ教への帰依は強制されたものではなかったものの、そういった違和感を持っていた人たちが、今回の親征決定をきっかけに、ブグゥ=カガンへの不満をはっきり表しだした。彼らは、宰相・トンバガ=タルカンの許に集まって、それぞれの不満を口にし、自分と同じ思いの者が多数いることに勇気づけられた。
トンバガ=タルカンは、ブグゥ=カガンの従父兄で、カガンより年長の、ヤグラカル氏の長老格である。彼は、心中ある決意を固めて、ブグゥ=カガンにタブガチを征伐する事の無意味さを説きに向かった。
「タブガチのくには広大であり、しかも、ウィグルに逆らったことがありません。先年の侵攻では、羊馬数万匹を得たものの、その代償は大きく、ブドゥンは疲弊しております。今、もし大がかりな出征を試みても、兵馬の損耗に見合うだけの成果が得られるものでしょうか……」
ブグゥ=カガンが、トンバガ=タルカンの諫めを聞き入れる道理がなかった。ヤグラカル氏の有力者がカガンの決定に口出しをするという形は、ブグゥ=カガンの最も嫌うところだった。トンバガ=タルカンはタブガチ側の事情にも明るく、彼の助言は極めて有意義だったのだが、自分の考えがすんなり通らない事に長い間苛立っていたブグゥ=カガンは、この時、変に意固地になっていたのかもしれない。
トンバガ=タルカンは、ブグゥ=カガンの意志は固く、何者にも変えられない、と見て取ると、決意を実行に移した。兵を挙げ、ブグゥ=カガンを攻め殺したのである。同時に、ブグゥ=カガンに、唐への侵攻を勧めていたソグド人に対し、血の粛清を行い、ただちに自ら即位した。アルプクトルグビルゲ=カガンである。
アルプクトルグビルゲ=カガンのカガン号には、不思議なことに、「天において(テングリデ)云々……」という他のカガンにはたいてい含まれている、目立つ字句が欠けている。これは、唐側の記録の不備ではなく、歴代のカガンの功績を刻んだウィグル側の碑文でもそうなっているので、間違いではない。この頃既に、「テングリ」という言葉は、単に天ではなく、唯一至高の存在である神という意味に使われ始めていて、マニ教の匂いのするそういう字句を意識して避けたためかもしれない。
新しいカガンが即位したことをタブガチのカガンに知らせるため、建タルカンを梁文秀に随行させることになった。ブグゥ=カガンの息子やブィルク(官職名)たち側近が、体勢を立て直そうと兵を募っており、鳥肌が立つような緊迫感の中、建タルカン、梁文秀らはアルプクトルグビルゲ=カガンの許を出発し、長安へ向かった。
振武軍使の張光晟は、梁文秀や建タルカンが長安に到着するより早く、粛正を逃れてきたソグド人たちからクーデターの第一報を得た。たまたま、ウィグルに帰国途中で、三ヶ月前から振武軍に滞在していた突董翳蜜施の一行も、同じようにして新しいカガンの即位と、ソグド人に加えられた弾圧を知った。突董翳蜜施の一行の中には、商売を営む多くのソグド人が含まれており、唐で得た巨万の富を携えていた。ウィグルでの血なまぐさい事件を聞いたソグド人たちは、帰国したら、自分たちにも同じ運命が待っているのではないかと恐怖にとらわれ、次々と逃亡した。突董翳蜜施は激怒して、商人たちを厳しく監視し、逃亡者を捕まえては厳罰に処した。
張光晟の許に這々の体で逃げ込んだソグド人は、今まで散々侮辱してきたこの唐の武将に、今度はウィグルに対する悪口を言い出した。
「ウィグルは、唐では主人面ですが、あんなのは強くも何ともありません。我々ソグド人が彼らのために商売を行い、世界の富をカガンの許に集めているから、強くなったのです。そういう我々の功績をないがしろにして、国政に関与して前カガンを誤らせたから殺すってどういうことでしょう？ ウィグルには、哲学も将来の展望もなく、あちらにうま味があると知れば、わらわらと出掛けて行く、そちらに財物があると知れば、徒党を組んで略奪する、といった具合に計画性も何もあったものではありません。我々が智慧を貸して道を示したからこそ、今日のウィグルの隆盛があるというのに、その智慧の源泉を排除するとは……。もうウィグルに未来はありません。」
張光晟は、前カガンの息子が、簒奪者を成敗する兵を挙げ、両軍の衝突が数度あったという情報も得ていた。
「回鶻は、少なくとも数年の間、大乱になるだろう。」
張光晟はそう判断した。また、突董翳蜜施の一行がウィグルに持ち帰る輜重が多すぎるのではないかといぶかしんで、駅吏に荷物に長い錐を刺してみるように命じたところ、それは中国語の悲鳴を上げ、もぞもぞと動いた。話を聞いてみると、長安で拉致され、袋に詰められた女性や子供だった。張光晟は、「ウィグルであれば、どんなに貧乏な牧民でも、タブガチのカガンより身分が上」と思っている突董翳蜜施が振武軍に滞在している三ヶ月の間、皇帝と同じ食事を出せだのなんだのと様々な無理難題を押しつけられていい加減腹に据えかねていた。駅吏の報告を聞いた瞬間、かろうじて彼を堪え忍ばせていた何かがふつっと切れた。
張光晟は、ウィグルの一行を宴に招いた。酒宴もたけなわになった頃、張光晟の裨校(副将)が予定通り、突董翳蜜施に対して無礼な振る舞いをした。怒った突董翳蜜施が裨校を鞭で殴りつけたのを合図に、武装して待機していた兵士たちが襲い掛かり、ウィグル人もソグド人も手当たり次第に殺した。生き残ったのは、たった二人のソグド人だけだった。ウィグルにさらわれて連れてこられた者たちは袋から出され、数千頭の駱駝や馬、十万疋の絹や錦が押収された。張光晟は、拉致被害者を長安に送り届けるとともに、「回鶻の首領が、我が軍の将を鞭打ち、振武軍を奪取しようと企んだので、やむなく応戦した。」と事の次第を報告した。張光晟は召還された。
この時既に、京兆尹の源休が、アルプクトルグビルゲ=カガンの即位を追認し、武義成功可汗という称号を贈るための使節として長安を出発していた。ウィグルに対する深い憎しみを抱いていた唐皇帝・徳宗は、張光晟の起こした事件は、ウィグルと断交する良い機会だと思い、太原に留まって指示を待つよう、急遽、源休に勅した。
建タルカンが唐の中使とともにオルドゥ=バリクに向かい、突董翳蜜施の死亡のいきさつをカガンに説明した。唐の使者は、つぶさにウィグルの情勢を観察し、長安に帰ってきた。
それは、張光晟や徳宗が期待したようなものではなかった。アルプクトルグビルゲ=カガンは、前カガンの子供や側近に対して容赦のない措置をとり、先に粛正したソグド人なども合わせると、2000人以上を殺して抵抗勢力を叩き潰し、完全に権力を掌握していた。ソグド人やマニ教徒たちが、ウィグルの有力氏族にそれほどまでも嫌われていて、アルプクトルグビルゲ=カガンの武力による排除が彼らに歓迎されるということまでは、張光晟には読み切れなかったのだ。
翌鶏の年(781年)、源休は太原を出発した。突董翳蜜施ら四つの柩をウィグルに送り届けるために。
アルプクトルグビルゲ=カガンは、大臣に命じて、車や馬を出して源休らを出迎えさせた。突董翳蜜施は、カガンの叔父であった。
イル=オゲシことクトルグ=セングンが、どういった理由で突董翳蜜施が殺されなければならなかったのか、説明してみろ、と源休らを問いつめた。
「彼が自ら張光晟と戦って死んだのであって、天子がそうせよと命じたのではありません。」
クトルグ=セングンは帳内に坐し、源休らを帳外、雪の中に立たせたまま、容赦なく尋問を続ける。
「我がくにの使者が、タブガチのくにに対して、死に価するほどの背信行為を働いたのに、我々が手をこまねいていたから代わりに罰してやったとでも言いたげだな。そうじゃないだろう。そういう場合、我々が誰かの手を借りなければならないなどと言う事があるか？」
過酷な尋問は延々と続き、源休ら唐の使者は、死にそうになった。彼らはそのまま50日間、ウィグルに留め置かれたが、結局、一度もアルプクトルグビルゲ=カガンへの謁見は許されなかった。
源休たちが帰国する段になって、アルプクトルグビルゲ=カガンの次のような言葉が伝えられた。
「私たちの諺に、『血は血で洗い流せない、血を洗い流せるのは水だけ』という。……我がくにの誰もがおまえの死を望んでいるが、私だけはそうではない。突董翳蜜施らは、もう死んでしまっていて、今ここでおまえの血を流したとしても、生き還るものでもない。流された血を、水で洗い流すのも良いとは思わないか？ 憎しみの連環をここで断ち切ろう。」
「そして、役人どもにはこう言え。積もりに積もった毎年の馬の未払いの代価、奪われた馬の賠償として、180万を速やかに我々に償え、と。」
180万とは、当然、
ウィグルの使者、散支将軍・康赤心とともに、源休は長安に戻って来た。源休は、アルプクトルグビルゲ=カガンの言葉をそのまま唐の皇帝に伝えた。徳宗は、胸をかきむしりたい程の屈辱に黙って堪え、十万疋の帛と金銀十万両をウィグルのカガンに支払った。この頃、馬ばかりでなく帛も不足しており、唐側はウィグルの要求に見合うだけの帛を集めることができなかったのである。